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第11章 マチャムニ(続き)

(53ページからの続き)

マチャムニは、師(グル)と神への揺るぎない献身を重視しました。また彼の倫理的教えは、真実・非暴力・慈悲・謙虚さを実践し、それらの徳を日常生活の中で育むことの必要性を説いています。

さらにマチャムニは、物質的所有や世俗的欲望への執着を手放すことの重要性を教えました。彼は、真の解脱とは自我を超越し、自らの内に宿る神性を悟ることによってのみ得られると説いています。

⸻

神秘的な力と伝説

マチャムニにまつわる伝説は、彼が神秘的な力を自在に操り、高度な霊的境地に到達していたことを物語っています。

彼は自然界の力を操り、奇跡的な治癒を行い、深い瞑想(三昧)の状態に入る能力を持っていたと伝えられています。

これらの神秘的な力は、神との深い結び付きとヨーガ修行の卓越した完成度を示しています。

最も有名な伝説の一つでは、深い瞑想中に巨大な魚に飲み込まれ、その魚の腹の中で神聖な智慧を授かったとされています。

この物語は、彼が瞑想を通して精神世界へ深く没入し、偉大な叡智を得たことを象徴しています。

また彼は、肉体的な限界を超え、高次の意識状態へ到達する能力を持っていたとも信じられています。

彼の深い瞑想と霊的洞察は、多くの求道者に自己実現と神との合一への道を歩む勇気を与え続けています。
マチャムニが授ける祝福

マチャムニに祈る人々は、人生のさまざまな面で祝福を求めます。

彼は次のような恩恵を授けると信じられています。

1. 精神的成長

マチャムニは霊的成長と自己実現を重視しました。

彼の教えは、信者が内なる平安と悟りへ向かう旅において、その導きを求めるよう促しています。

2. 健康と幸福

ハタ・ヨーガと錬金術の達人として、健康・治癒・幸福を授ける存在として崇敬されています。

その恩寵によって病が癒され、生命力が高まると信じられています。

3. 知恵と智慧

ヨーガと霊性に関する広大な知識によって、マチャムニは深い知恵と理解の象徴として尊敬されています。

信者は知性と霊的洞察を深めるために、その祝福を祈ります。

4. 守護と導き

マチャムニは守護者であり導師でもあります。

信者は障害を乗り越え、勇気を得て、人生の試練に強さと忍耐をもって立ち向かえるよう、その祝福を求めます。

5. 執着からの解放と心の平安

執着を離れることを説くマチャムニの教えは、人々が物質的欲望を超越し、内なる平安を見出すことを促します。

信者は心の満足と霊的充足を育むため、その祝福を祈ります。

⸻

遺産と影響

マチャムニの永続的な影響は、ハタ・ヨーガとインドの精神文化の伝統全体に深く浸透しています。

彼のヨーガ・哲学・霊性修行への重要な貢献は、今日でも修行者や信奉者たちにとって大きな導きとインスピレーションの源となっています。

その深遠な知恵によって、彼の教えはインドの精神文化と文化遺産の形成に大きな役割を果たし続けています。

生涯を通じてマチャムニは、規律ある修行がもたらす変容の力と、真理を求め続ける不断の探究心を体現しました。

彼の遺産は、自己探求と精神的成長を目指すすべての人々の道を今も照らし続け、内なる平和と悟りへ向かう旅に、時代を超えた知恵と深い洞察を与え続けています。
第12章 カルヴラル(Karuvurar)

生涯と霊的修行

カルヴラルは18人のシッダの一人として知られ、シッダ医学、錬金術、そして霊的修行における深い知識で名高い人物です。

彼の幼少期はタミル地方で過ごしたとされ、そこでシッダ医学と霊性の豊かな伝統から大きな影響を受けました。若い頃からこれらの学問への並外れた献身を示し、後の偉業の礎を築きました。

カルヴラルの霊的探求は、厳しい修行と飽くなき知識への探究心によって特徴づけられていました。彼は古代の聖典を深く学び、卓越したシッダや賢者たちの教えを受けることで、自然界と霊的世界への理解を深めました。

シッダ医学への貢献

カルヴラルは、特に錬金術と薬学の分野での貢献により高く評価されています。

彼の医学書は総称して『カルヴラル・ナーディ(Karuvurar Nadi)』と呼ばれ、多くの病気の治療法が記されています。これらは薬草、鉱物、その他の天然物質の利用を重視しています。
カルヴラルの医学は、

* 身体
* 心
* 精神

の相互関係と身体エネルギーの調和を重視する、非常に包括的な医療体系でした。
彼の代表的な業績の一つは、水銀化合物を医薬品として調製・利用する技術です。彼は水銀や様々な金属を精製する方法を開発し、高い効力を持つ薬剤を作り出しました。

錬金術と薬学における彼の知識は、後世のシッダ医学へ大きな影響を与えました。

彼の医学書には、

* 病気の診断法
* 食事療法
* 予防医学
* 適切な栄養
* 定期的な浄化(デトックス)

なども詳しく記されており、健康維持への総合的なアプローチが示されています。
哲学と倫理の教え

カルヴラルの教えは医学だけに留まらず、深い哲学と倫理にも及びます。

彼は、

* 自然との調和
* ダルマ(正しい生き方)
* 精神と物質の均衡

を説きました。

カルヴラルの思想の中心には、

自己規律(Self-discipline)

と

内なる純粋さ(Inner Purity)

があります。

彼は、

規律ある心と身体こそが霊的成長と究極の解脱に不可欠であると説きました。

さらに、
真実
慈悲
​◎ 昭和四十一年十一月八日午後十二時五十分御書き取り
二月の心得につき御言葉御願い  
​一日 面足之命様(そうじした ところをあるき たちどまり そのところより かんろうだいを 先負) ☆
三八七
一六二
五四九
                      
ということは、大正十二年の末から昭和十三年三月の十と三日までのことを、「そうじしたところを、あるきたちどまり」ということやそうな。「そのところより」ということが、昭和十三年から昭和十七年の十二月二十三日までのことが、最初に月読之命様、国狭土之命様、二社の神様が天降りあり、それから五ヵ年間の間、「幕へ幻燈を写すようなもの」と仰せくだされて、身上者や事情者の人のことを、幻燈でお助けをさしていただいてまいりまして、昭和十七年の十二月の二十三日に、あとの八社様天降りあり。
その中で五社の神様先に天降りあり、最後に三社様天降りあり、十社の神様御そろいになった時が、そのところよりこの「会田ヒデ」が、皆様方が願われることを天に伺うて、道あけのことを皆さんにとりつぎしていたゞくことが、『そのところより甘露台を』ということやそうな。  
​ そしてだん々ひとり、ふたり三人と寄り集まって、昭和十年となりまして皆様の願われることについて、天より天佑をくだされ、『てんゆう』とは御利益のこと。そしてありがたい、ありがたいでこの道に協力してくだされたお陰にて、昭和四十年度の暮れに、普請が始まり、現場の普請と心の理の普請と共にやらしていただいてきょうの日でございますが、これから先も今まで通りに御利益をいただきつつ、協力をしていただきとうございますということが、天との「会田ヒデ」と皆さんと、『三点龍頭一つのみにかゝっている』と天で仰せでございますが、
​ お互様は、親様月日様、八方様の御利益で、皆様方の協力で万ごう末代助けていたゞく、なくてはならん本部と、なくてはならん十社様と、皆様方と三つ一つになって、世上助けにまい進していただいて、皆めいく〜が心のそうじにいそしんで、暮らすことが大切と思う。  
​ この道の信仰にはいらしてもらって、一つの教会や支部を持たしていただいて、教会長や支部長や、分講長や、責任役員や、委員や、教師になるまでの間をさして、『そうじしたところを、あるきたちどまり』ということが、日夜人様を導かしてもらった功徳によって、一つのしるしを持たしていたゞけた、ということが、そのところより親様月日様、八方様とこの台の心を受けて、世上助けにまい進して、親様月日様、八方様の理を取り次いで、信徒さんをたくさんかくとくすることをさして、そのところより甘露台様、すなわち十社様の理を取り次ぐことを、『そうじしたところを歩き立ちどまり、そ
のところよりかんろうだいを』ということやそうな。よくわかったでしょう。  
​二日 国狭土之命様(どのような からきしんぱい みえたとて
 なにもこわみな あぶなげもない 仏滅) ☆
四九八
二七三                          六五一  
​ ということは、何事によらず心配事があったら、いつでも本部に運ばしていただいて、その心配事を天からといて聞かしていただいて、帰宅をしておられたら、何も心配することはないでしょう。腹の中で心配事を考えて、いくら人間が心配をしていたとてどうにもならんのだから、正気づいて本部に運ぶにあると思う。ある書物を読んで、いつなん時どんなことになってくるかと、心の中をちぢみあがらしているようなことでは、お道を聞かしていただいた価値がないでしょう。  
​ 人間の世界、人間の世であったら、人間同志が心配をせねばならんが、神様の世界で、神様の世であるのだから、心配は一つもないと思いますねい。
皆様方が、「親様月日様」と御願いをされれば、いつも利益をいただいておられるでしょう。それだから、何も一事が万事心配をして世渡りをしている必要はないと思いますねい。それですから、『どのようなからき心配みえたとて、何もこわみなあぶなげもない』と仰せくだされてあるのですよ。いつの時でも、ない世界、ない人間を御造りくだされてある世上、ということをよく〜悟ってごらんんなさい。  
​ なぜならば、あなた方のおなかへ赤ちゃんを宿らしくださるでしょう。そこで、子供を『宿しこむのも月日なら、生まれ出すのも月日せわどり』と仰せくだされてあって、ない世界、ない人間を生まれ出さしてくだされてある、ということは、よくわかるでしょう。人間の力で十月十日の間に五輪五体をそろえて生まれさしてくだされてあることだけでも、よくわかるでしょう。妊娠中に一家の家庭がごた〜して、ほこりを積んでいると、五輪五体
​りと思う、ということや。わかったでしょう。  
​三日 月読之命様(おたがいに 節分祭を よくさとれまめではたらく ことであるなら 大安) ☆
五一九
三八四                       七六二  
​ 天も勇んで守護くださることやから、節分祭ということは、せつの分かれめであって、日々心配事をくり返して、ふるえていることと、心があたたかくなって、家族がそろってえ顔で暮らすこの心を、ということが節分祭になぞらえて、豆まきをやっているでしょう。四方八方へ気くばり、目くばりさせてもらって商売をやらしていただく理の姿が、まめで働く、ということやそうな。  
​ 「福は内、鬼は外」というていたとて、家々でつの突き合いをしていたら福が舞いこんできそうなことはない。鬼のような心を追放しながら、福は内鬼は外となえれば、天から心どおりの守護をしてくださる、ということや
​四日 雲読之命様(いつつるぞ なんのひがてる なにゆえか このせいしんの みちをしらねば 赤口) ☆
 六二一
四九五                        八七三  
​ ということは、このお道を聞かしていただいてからは、皆さん方の心を天が受け取って、うつりし理をうつし返ししていてくだされて、天のみ心になった心を天へ供えておればこそ、家々も明かるくなり、つくし運びもできにおいがけもしさせてもらい、教師になってお助けもでき、そしてどこからどこまでも人様に敬まい、とうとばれるような心の持ち主になった時が、親様月日様、八方様のありがたいがわかった時、天から入信していない人のことを、『いつつるぞ、なんのひがてるなにゆえか』と仰せくだされてあるのですから、皆さんは一人も多く導いてやらんと、天の月日親神様が、『親として子供の苦労を見るにしのびん』と仰せくだされてありますとおり、においがけや、お助けをさしていたゞかんと、天の御心が日々休まらんことになり
そこで年男だとか、年女だとか言うているでしょう。これは鬼門の年の人、八方ふさがりの年の人、病門の年の人のこと。この節にお互様は、心を徐行して暮らしていきさいすれば、その年は無難で暮らせる、ということや。  
​ お互様に、横目ふらずに、ということは、道草くわずに、理というものを心でねってということは、よりかけてということや。そしてどんなけわしい山道でも、ということは、どんな苦労でも心配事でも、運んで聞かしていただいて、理というものを杖として暮らさせていただくことを、天の御言葉の中に、『横目ふらずによりかけて、ほうてのぼれよ理をつえにして』と仰せくだされてあるのでございますから、親様月日様、八方様ということを、たえず安心して暮らすにありと思う。理を杖にして、ということは、運んで聞かしていただいているでしょう。そのみ教えを守っていくことをさして、理をつえにして、ということですよ。わかったでしょう。
​ますから、においがけや、お助けをした人を一人もおとおさんよう、信徒さんを修理して、信徒さんの家を花ざかりに導いてやって、実のりをたっぷりあたえてやってもらえば、おのづと信徒は、それからそれいとふえてくる。というこの精神が天のみ心のかなって、大きな働きがさしていたゞけるのだと天でいつも仰せくだされてあることを、『いつてるぞ、なんの日がてる、なにゆえか、この精神をよくしらねば』と仰せくださる御心の御言葉でございますから、皆様も心の改良をしながら、つくしも運びもやりながら、においがけお助けにまい進していただきたいと、いつも天が地上のありさまをながめて、台と天と八方様と皆さんと、せつなる願いと思う。  
​ これからもなお一層しっかりと、お道にふんばりください、ということやわかったでしょう。
五日 惶根之命様(ぜんあくを みわけすすめて なにもかも よろずたすかる ことになるから 先勝) ☆
七三二
五一六                           九八四  
​ ということは、善悪の見さかいなきときは、たとえていうたら、皆様よ、無二の親友だとか、あれは遠縁にあたる親戚だとか、またはあれは昔から知っている人だからというて、人というものをむやみに信用して、「この人はおれに金を借りる受け判になってくれというているけれど、おれには迷惑をかけるような人ではないだろう」と、うっかり受け人になって、はんを押し・て三年五年とたつうちに、人間には「この人を受け人にしておいて、先になったらおれはどこかへ借りた金も返さずに高とびをして、受け判をしてくれた人の財産を、おれの借金のかたに払わしてやろう」というような、悪のりょうけんはないでしょうけれど、いきがかり上事業に失敗して、赤字になってどういうふうにやりくりをしても、とうていおっつかなくなったというて
どこかへ行方不明になる。そうこうしているうちに、受け判をした人のところへいきなり差し押えがくる。金が払えなければ競売にする、というようなとんでもない災難がまい込んでくる。  
​ お互様に前生に相手方に借金をしておいて払わずに世を去ったり、払わずに夜逃げをしたり、いろ〜な因縁が積んであったとしたら、その借財を返さにゃならん因縁があるから、たのまれりゃ受け判でも何でもして、前生の借金を返さにゃならんとあせって受け判をするようになったり、前生に泣かしてある女に出会うと、ごきげをとって返さにゃならん理がでてくると、二号でも三号でもやたらもって早く因縁を切って、せい〜しようと思って一生懸命にはたしにかかる。  
​ それからまた『人間というものはどこから生まれてきたのやら、どこへ死んで行くのやらあとさき知りたる者はない』と仰せくだされてありますとお
​り、前生の因縁の深い者ほど因縁はたしがきれないと、生まれながらにし
てごく悪因縁を積む人もあれば、前生のごく悪因縁をはたすために、一生懸
命にいそいで、あっちこっちと因縁切りに歩く。この因縁切りに歩く人が家
を外にして、家族の者から見れば悪いことばかりしているように見えますが
『親子となるは深き因縁』とも仰せくだされてありますとおり、『一家族と
いうものは、同じ因縁を寄せて守護してある』とも仰せくだされてあります
から、お筆先の中に、『この世は、りいでせめたる世界なり、なにかよろづ   
は、歌のりでせめる(家々の言葉の理)』とありますし、『せめるとて、手出しするではないほ
(家々でろんのすえ、事情がおきてくるということや)
どに、口でもいわん筆先のせめ』とありますとおり、これから先もなお一層
この世の中の善悪の見分け心にして、理から因縁を自覚して暮らすにありと

思う。そこで日夜心して、心のじじょうをふみならしてかよい道(本部のこと)という。そ
してよろず助けていただきましょうねい、ということや。わかったでしょう
​六日 大食天之命様(おたがいに のむ物きるもの はなすものよろづたすかる ことであるから 友引) ☆
 八四三
六二七                           一九五  
​ ということは、のむというたら現場では、水とか、お茶とか、ジュースとか、昆布茶とか、かき氷とかアイスクリームとか、いろ〜飲むものはあるでしょう。  
​ そこで一家の家庭というものは、皆親子、兄弟、夫婦、孫、しゅうと、しゅうとめ、小じゅうとというように、みず知らずの他人はいないでしょう。これが【みず】それだから家族の者の話しを共に語り合って、だめにするようなことでは、お茶を飲んでいて理のわからん人、お互様に喜んで日暮らしをさせてもらうが【昆布茶】。【かき氷】とは、家々でへだて心を使って、あの子はこの子は、あのおやじは、この案内は、あのしゅうと、あのしゅうとめ、あの小じゅうとは、この子供は、この孫は、この嫁は、というてお互
に、にらみ合って冷たい心の持ち主という言葉の理が、かき氷という。  
​ お互様に愛しあって、喜びあって、一つの苦労も共にさしていただいてわになって暮らしていただくということが【アイスクリーム】という。そこで、何事によらずゆずりあって暮らしてゆくという、何事によらずすべてじゅんずるという心、これすなわち【ジュース】という。  
​ 着る物という着る物はもめん、お互にめんめんが気をもまんようにする理で、【きもめん】を着ている理、いろ〜な着物もたくさんあるでしょう。いち〜言うたらきりのないことでございますが、【かすり】というたら、天からいろ〜な物を貸し与えてくだされて、人間からは借り物で、理というものをわからしてもらって、各自の家庭が軒を並べている姿が、かすりの理の姿。【しま柄】は、天から天降りの理の姿。  
​ 【横段】は、皆様方が家庭をもって一列に暮らしている理の姿。
​鶴の柄でも、きっこうでも、着せていただいておっても、理がわからなかったら着ている価値はありませんでねい。  
​ 世の中でよく言う「鶴は千年、亀は万年」というていれどもこの心、悟りがのうては何もわかりませんねい。心の改良に専念して暮らしてもらえばいつまでもいつまでも万ごう末代御連れ通りくださる、という理の姿。  
​ 【きっこう】の姿は、手足をつっつ付けば引っ込め、頭をつっつ付けば、引っ込めして、へだてのない心をさして、べっこの取り扱いをせぬという心がまえが、天から見られて万ごう末代見落としはないから、低い優しいすなおな心の持ち主になって、はい〜で暮らしてゆけよ、との御心の理の姿。  
​ 【山】の姿は、高い心になると、めったに人が寄りつかなくなる、という理の姿。  
​ 【波の柄】は、心に波うつなよ。静かな心で平らに進めよと【川】の姿。
【花の柄】でもそのごとく、姿ながめてよく悟るにありと思う。  
​ お互様に話すものということは、声のかけようで自分の心にぴったりとはまるような返事が、先方からいただけるのでございますが、こちらの声のかけ方が違っている時は、腹立たしい喜べない言葉を返してくれますから、声のかけようも日々研究して、日々お暮らしくさい、ということや。こういうことも、日々に心して暮らさしていだくけば万事助かる、ということや。心のかての一つですから心して日々お暮らしください、ということや。わかったでしょう。  
​七日 大戸辺之命様(かちまけの しょうぶごとおは やめにせよ りからそんする ことになりては 先負) ☆
九五四
七三八                          二一六  
​ いかんから、天から人間へ御注意くださるのであって、人間が勝負事をやっていると、損をするようなことになってはだめでしょう。そこで親様の二
​十年の道中に、いろ〜勝負事で損をしたことを、見たり聞いたりして
おりましたが、勝負事をして損をすると、前に損をした元金を取り返そうと
思って、だん〜と深みにはいって行って、しまいには家を抵当に入れたり
地所を売ったりして、皆損をして目をさまさずに、家内の生活費を腕力で家
家の者を泣かして勝負事に持っていく。また中には家庭内のいろ〜な道具
を持ち出して売り払って勝負事に使っている人も、中にはたくさんあるよう
に思いますが、とにかく家々に何んにもないようになって娘を売りとばした
り、男の子はあいそをつかして家に寄りつかなくなったり、家内はおやじに
離婚をせまって出ていってしまう。一家の家庭がどどのつまりは、破壊して
しまうようなことにもなる。  
​ また家内や子供と一家むつまじく暮らしていればよいものを、二号三号と
持ち歩いて家内の方には仕送りをしなくなって、二号三号の方で暮らしてい
​るうちに、にっちもさっちもいかなくなって、みすぼらしい姿をして一号の
ところへもどってくる。家内や子供にさげしめられて、自殺をとげる人もあ
る。これ皆勝負事のようなものなれば、天の御言葉の中に、『万里の道も一
歩から』と仰せくだされてありますとおり、ふみ出しのかゝりが大事ですか
ら、一家の家庭で不平不満を共に語り合って、不平不満のないようにして暮
らしてゆけば、二号、三号も、もたないですむし、勝負事もしないですむよ
うになりますから、一家族が和合して、豊かな道を通らしてもらうよう心し
てお暮らしください。  
​ さすれば理から結構になりますし、勝負事や、二号、三号をもって家庭を外
にすると、軌道からはずれた脱線者になりますから、家々の者から理から排
せきされるようなことになりますから、しっかりと心してお暮らしください
ということや。わかったでしょう。
​八日 岐 様 おやこでも りというものが なかだちや  りからなかよく くらすことなら 仏滅    ☆
一六五
八四九                          三二七  
​ ということは、皆さんここのところはよく聞きわけてくださいねい。この道はうらはらの道とゆうて、前生親子であれば、親が先に死んで子供の子供(孫)にな                って生まれてきて、前生の姿そのままに現わすものであって、これを理が仲立ちという事ですよ。それだから女の子であれば、男親と非常に仲良く暮らす者もあり。また男の子であって母親と仲良く暮らすもありで、そこでせがれが嫁をもらって、親とせがれが仲がよすぎて、嫁をお手伝いさんのようにむやみやたらとき使って、親とせがれが嫁を目下に見下してどなる、ふてる、たたく、親子で夫婦気取りで、嫁さんは日々まご〜おど〜して暮らしている家庭も、たくさんあるようでございますねい。  
​ また嫁さんとむこさんが、はたの見る目もうらやましいくらい、仲良くと
​おる若夫婦、その姿を見て、嫁を見て、父親がやきもきするもあり、養子を迎えてしゅうとめがやきもきするもあり、また孫としゅうと、しゅうとめが仲良く暮らすもあり、嫁が子供をざんこくに扱うもあり、子供が親をざんこくに扱うもあり、何しろ前生の姿そのままに今世現わしているのだから、ようするにしゅうとめが嫁をひどいめにあわしていると、今度はしゅうとめが孫になって現われてきて、その孫が嫁にひどいめにあっている。これが理が仲立ちであるから、前生の因縁と自覚して、嫁が子供を愛していくのが理が仲立ち、ということや。それから子供もこの道を聞かしていただいて、「前生このおれがこのおっかさんをひどいめにあわしたから、今世ひどいめにあわされるのだから、理が仲立ちだから、たたくおかあさんを自分が悪かったから、今たたかれているのだ」と、喜んで母親に感謝して暮らさしていただくという心がけが大切と思う。これで理の仲立ちと、うらはらの道ということがよくわかったでしょう。一つ聞いたらいっさいが、かたきをとって
うとことがよくわかったでしょう。一つ聞いたら一さいが、かたきをとって
とられて暮らしていく世の中の理の姿というものですよ。そこでお互が因縁
を自覚して仲良く暮らすにありと思う。よくわかったでしょう。  
​九日 美様(おたがいに いっちだんけつ たいせつや 
 ともにたすかる みちをもために 先勝) ☆
二七六
九五一                         四三八  
​ 皆さんは、本部に運んでおりながら、教会の信徒なら教会に協力するが理
の当然でしょう。それにもかかわらず一致団結力を忘れてしまって、十年も
前に本部から出張した先生の口車にのって、自分のつごうのよいことを言わ
れて、その気になって同じようなグループをこしらえて、教会から脱線して
かってな行動をとっていた人が、今から店をたたんで暮らさにゃならんよう
なはめに落ち入ったり、【腎臓結石】を煩ったり、【尿道結石】になったり、
または【胃潰瘍】になったり、または【腰抜け】になったり、あるじが病気
​になったり、娘が病気になったり、せがれにがみ〜言われたり、支部をや
めるとゆうてみたり、いくら願っても、【小児まひ】が御利益がいたぐけな
かったり、親様を向こうにまわして、あくたもくたにののしったりしておっ
た本部の先生も、理から本部にいられなくなって、ひとり、ふたり、三人四
人、五人、六人、七人、八人というように、不足不足で暮らしていると、理
から本部を出ねばならんようになって、今はさかんに苦しんでいるそうな。
本部から出た先生のおきみやげで、四、五十人ぐらいの信徒が皆身上にかか
って困っているそうな。それでも、お道をやめていないから、どうにかこう
にか御利益はいただいておるそうな。  
​ なれど職業の方も位が下がって門番となって、【胃潰瘍】を煩って、ざん
げして御利益をもらって帰宅をされましたが、親様を向こうにまわしてあく
たもくた言うておいて、何んにも知らん顔をして、ただ身上になったから
​「御利益をいただきとうございます」と訪れてこられても、こちらはあまり
よい気持ちはしませんが、それでも、「助けてくれ」と尋ねてくる者をほっ
てもおかれない。かわいそうな人だと思って面会をして御利益をいただいて
帰宅してもらったようなわけでございますが、
​ 『これから教会や本部に協力するというて軌道にのる心になって一致団結
して道をやれば助かるし、今までのような道を通っていると助からんことに
なるだけですから、どちらでもごずいいに』と申しましたところ、「しっか
りやらしていただきます」というて地方にもどられましたがあ、助けていただ
く道を求めにきておりながら、ちょっとしたはずみに、つまらん人の口車に
のらんよう心してお暮らしくさい、ということや。わかったでしょう。
​一〇日 国狭土之命様(おたがいに みちやるひと やらんひと えんりょきがねは おおけがのもと 友引)☆
三八七
一六二                           五四九
​ということは、お互に教会や、支部や、分講に、この道の協力している人
は何もいうことはないが、道をやっていながら道をやっていない人がたくさ
んあるように思いますが、皆さんはいかがでございますか。教会や、支部や
分講に、運んでいる信徒の中にも、道につかしていただいておりながら、道
をやっていない人は、一家の家庭に身上や事情が続出している。この身上や
事情が続出している家庭のことを、『大けがの元』という。  
​ ある教会のある人が、信仰にはいらしてもらう時に、腹の中にいちもつも
って、先になったらこうもしよう、ああもしよう、その時はおれも一つ金も
うけをしよう、という心で本部に来ていたことが、きょうの日になってよく
わかりましたが、自分の思いが通らんために、親様を、「あのくそあまめ今
に見ていろ、おれが祈り殺してくれる」というて、言いふらして歩いている
人も二、三あるそうな。なれど親様には矢がたちませんよ。なぜなれば、い
​かにあくたもくた言われても、そんなことはおかまいなしに、『そのあくた
もくた言うている人を、助けてやっていただきとうございます』と無事をお
祈りしている親様ですから、あくたもくたを言うてこちらに弾丸を向けてお
りますが、自分で打った弾丸のはね返りを受けて、今はものすごく生活難に
追われて、その日暮らしの日暮らしをやっておりながら、こちらに向かって
身上や事情が苦しくなると、今まで願っていたくせがあるから、むが夢中で
道もあげずに、ざんげもしずに願い通しているから、天から仕方なしに御利
益をくだされておる御慈悲のほどさも知らずに、このお道をやめてつくしも
せずに、運びもしずにむやみやたらと願ったら、御利益をもらったというて
赤い舌をべろりと出して、こんなうまいことはないと、妙味をむさぼって暮
らしている人も中にはたくさんあるそうな。  
​ いろ〜と天から聞かしていただいておりますが、まったく人間ほど始末
の悪いものはありませんねい。今世肉体のある間は、それでも通れるでしようが、御言葉の中に、『今世この道の理を用いずに、あくたもくたで日暮らしをして、腕力で願うて御利益をいただいておる人は、こんどの世には何んになるともわからん』と仰せくだされてありますが、『まったく困った者や』といつも天に願いをかけている親様でございますよ。皆さん方はこれからもひるまずたゆまず、この道をやりらしてもらって、身上事情という大けがのないようにお暮らしください、ということや。わかったでしょう。  
​-27-  
​一一日 月読之命様 ひかんして はらをたったり たたせたり ☆ 四九八
                              二七三
            こまりものやと なげきくどきは 先負 六五一 🐎  
​天の受けとりはありませんよ。親様から言わせると、悲観してあくたもくたにののしって、腹を立ったり立たせたりして暮しているよりは、早く運たにののしって、腹を立ったり立たせたりして暮している、心のもっていき方を切り変えて、暮していけば
​『困りものやと、嘆きくどき』を天に供えて暮していると、今世の嘆きが相手方に、また来世嘆かれることになるのですよ。ですからからこの世の中は、『命を取ったり取られたり、腹を立ったり立たせたり、生まれ変わり死に変わり、何年いたとて同じことやってになあ』と仰せくだされてあるのでございますから、見るもの聞くものざんげして、お互様にまよいのうちどめいたしましょう。  
​とにかく親様月日様、八方様ということをお忘れなく、心のじしょうをふみならしてかよい道とゆう。本部や、教会や、支部や、分講や、責任役員や委員や、教師や、信徒と共に、たばになって助け合って、暮していただきましょうねい、ということや。わかったでしょう。
​この御言葉をただうか〜とよんで暮していたのではらちがあきませんよ。らちがあかねば家々はまっくらやみですよ。『やぶれちぎれてかけてゆくなり』とゆうことは、家族の者がしまいには、出直しする人もあれば、家をとび出す人も出てくれば、かんかこどくで道をやりながら、さびしい日暮らしをせねばならんことになるでしょう。  
​そこでめいく〜がりっぱな手本を出して、人様に、「お道をやっておる人は、何んとまあえらいものや」と世上からはめられて理の当然でしょう。それだのに周囲の人にいろいろな注意をされると、腹を立ったり、おれをばかにしゃがると、おこってみたり、どなってみたり、不足をいうたりしていると、しまいには一家の家庭の人にもあいそをつかされて、信徒もぼつ〜と寄ってこなくなって、あきや同然になる、ということや。この御言葉を思いあたる人は、道を正して向きを変えて、教えて通りの道をあゆんでいただきた
一二日 雲読之命様 うらおもて ありてはならん このみちは
         てほんひながた さとりとれたら 仏滅 ☆
五一九
三八四
七六二 🐐  
​『手本ひながたととする事情』と天で仰せくだされてありますとおり、『裏と表とまた中と、三つそろえてつとめごしらえ』と仰せくだされてありますが、親様の前では、よいことばかり聞かせておいて、裏面にまわると、家庭をもませたり、家庭の者をがなりつけたり、不足を言うたり言われたり不足をさしたり、不足をしたり、何のこともない一家の家庭が、泥試合のようなもの。日々に秩序正しく暮してゆけばごた〜はないのに、裏面でいつもごた〜して、表面ではよい顔して何んのこともないいちあかん、『らがなかれば日が照らん。承知できねば何もびっしゃり、あれもやみ、これもつまりて、日は照らん。やぶれちぎりてかけてゆくなり』と仰せくだされてありますが、
​この御言葉をただうか〜とよんで暮していたのではらちがあきませんよ。らちがあかねば家々はまっくらやみですよ。『やぶれちぎれてかけてゆくなり』とゆうことは、家族の者がしまいには、出直しする人もあれば、家をとび出す人も出てくれば、かんかこどくで道をやりながら、さびしい日暮らしをせねばならんことになるでしょう。  
​そこでめいく〜がりっぱな手本を出して、人様に、「お道をやっておる人は、何んとまあえらいものや」と世上からはめられて理の当然でしょう。それだのに周囲の人にいろいろな注意をされると、腹を立ったり、おれをばかにしゃがると、おこってみたり、どなってみたり、不足をいうたりしていると、しまいには一家の家庭の人にもあいそをつかされて、信徒もぼつ〜と寄ってこなくなって、あきや同然になる、ということや。この御言葉を思いあたる人は、道を正して向きを変えて、教えて通りの道をあゆんでいただきた
​一三日 惣根之命様 そんしても とくとることが たいせつや
          よくのこころは そんをするぞや 大安 ☆
六二一
四九五
八七三 🐒  
​『損しても得とることが大切や』ということは、このお道に運んでおつくしすれば、損をするような考えをもつ人がたくさんあるように思いますが、徳を積めば、天は人間におつくしをして損をしている人がありあますか。おつくしをして余計にもうけさしていただいている人がたくさんあると思います。  
​これをおつくしをして一家の家庭がまわらなくなったら大変だと、案じながらおつくしをしている人は、そのわりに理からもうけさしていただくことはできないと思います。親様から御利益をいただいて、つくしていただくのがあたまえだというてつくしている人は、結構にもうけさしていただいて
​おられるでしょう。  
​『損しても得とることが大切や』ということは、世上でもよく言う、「まかぬ種は生えぬ」とやら、ということをよく言うておりますねい。大根や菜っ葉でもまかぬ種は生えませんねい。神様の御言葉の中に、『まけば生える、まかねば生えぬ善悪の、人は知らねど種はしょうじき』とも仰せくだされてありますが、まけば生える、まかねば生えぬ善悪の、人は知らねど種は正直ということは、悪いことをしておれば、いつか芽がふいて、その方面につかまってひどいめに会わしただけ、ひどいめに会わねばなりませんねい。よいことをしておれば、いつかその方面で表彰されたり、いろいろの方面から、よいことばかりが現われてきますねい。  
​世の中の人は何も知らんで暮らしているが、種は正直に現われてきて、仏様のような顔をしていても、「人はみかけによらんもの」とか、「あの人は
​鬼のような顔をしているが、あの方はそんなに良いことをしていたのか」と心一つでさげしめられたり、心一つで見直されたり、いろいろと不しあわせのでるのも、幸福の現われてくるのも、これ皆天でしていてくださるのでございますよ。  
​そこで天の御言葉の中に、『ソロバンふせての道や』と仰せくだされてあります以上は、つくしでも、運びでも、世の中のつき合いでも、あまりけちけちして、身びいき身いがってのために、欲の思案ばかりしていると、とんだところで、とんだ思いがけない損をするようなことが現われてきますから、あまり口やかましい心の持ち主になって、口うるさく、「経済がもたん」とか、「こんなことではやりきれない」とか言うて、ぐちをこぼしていると、なんでもない損をするようなことをまねき寄せることになりますから、欲の思案はやめた方がよいと思う。そして皆さんも助からんことになりますでね。
わかったでしょう。  
​一四日 大食天之命様 そんとくの はなしはだれも しっている
           りでなるみちを しらんことでは 赤口 ☆
七三二
五一六
九八四 🐓  
​役にはたたんことになりますから、皆さんはこの道につかしていただいたなら、教えてにもとづいて、しっかりと実行家になっていただきとうございます。なぜならば、この道にはいる前の様な心でいたのでは、絶対に助かりませんでねい。この道の教えにもとづいて、すなおにやらしていただくだけば助けていただくことは疑いはありませんよ。  
​なぜならば、皆さん方は、「親様月日様」と言うておられるでしょう。あんた方の全財産を年限かかって、裸にむいたおぼえはありませんでねい。とにかく皆さん方の魂の親であり、肉体の親であり、いっさい物というものは皆借り物ですから、皆さんの物を裸にむいて嘆かれれば、親だもの、また与
​えなければならんことになるでしょう。そんなまわりくどい、めんどうくさいことはきらいな親様ですから、安心して欲の心はやめて、おつくししてもけっして親が子供に損をさすような親はありませんでねい。  
​天の月日親様は、『人間もわが子かわいいであろうがなあ、それを思うて思案してくれ』といつもくど〜仰せでございますでねい。親様月日様に助けていただくのに、つくしはしたくないし、運びはしたくないし、においがけも、お助けもしみたくはないし、心の改良もしみたくはないし、悪い時だけ「おまえは助けてくれればいいのだ」というような心では、そちらはよいか知破りませんが、こちらは情けないことになりますでねい。天の御言葉の中に『本部内の人を助ける人を助ける』と仰せくだされてありますからには、皆さん方が助けていただいて、そのてまえ、「ありがたかった」と、ふせをするのに文句を言うている人があるのだから、こちらではいつも情けないと思っ
ておりますが、これも仕方がないと思っております。  
​なぜならば、人間の親でも子供が苦しんでいる姿を見て、嘆かれれば身の皮はいいでも、子供を助けずにいはない親ばかりでしょう。なれど世界中は皆天の子でしょう。子が親を助けるということは、あまりないようでございますねい。文句なしに親様親様とつくしてくださる人は、真の心から、ありがたく思っておりますが、助かりたいために、仕方なしにつくしていてくださる人のことは、あまりありがたくはありませんねい。  
​つくしも運びもしないでおいて、文句ばかり言っている人は、こちらもあまり眼中にはありませんでねい。天の御言葉の中に、人間のことを、『目の中へいれても、いたくないほどかわいいわが子』と仰せくだされてありますが、まったくそのとおりだと思います。世の中でよく言う「かわいい子供には旅をさせろ」とよく言うておりますが、あまりうだつの上がらん人は、天
から旅をさせられているのでございますから、ひるまずゆまず、あいかわらずで旅を続けておりさいすれば、いつか天からみとめられて、神様が人間にいり込んで、『長年の旅をしている、あの子供を、おまえが救ってやってくれよ』と人間と思いうかばしかしてくださるその時が、長年の旅をしていた人が救い上げられる時でございますよ。そこで、ここに運んでくる人は、苦労のしどうしでおっても、この台が天に願っておりますから、み月か半年もすれば、みんなこきれいになって運んでおられるでしょう。見る人が見ればわかるでしょう。そこで理ということも、わかったでしょう。
​一五日 大戸辺之命様 おおぜいの ひとのかしらに たつひととは
           よろずのひとを おもいやるよう 先勝 ☆
八四三
六二七
一九五 🐕
​この道の人は、皆大ぜいの人のかしらに立つ者ばかりが、天から寄せてあるのでございますよ。ですから、いつの時でもいろいろな性質の人があ
​るでしょう。その性質をよく知って、その性質を皆承知しておいて、よいところばかりひろい集めて、悪いところはすてておいて、そしてよろずの人を思いやって暮らすにありと思う。
​たとえて言うたら、教会長や、支部長や、分講長は、責任役員や、委員や教師や、信徒を思いやるにありと思う。また責任役員や、委員や、教師や、信徒は、教会長を、思いやるにありと思う。人の先頭に立つ人は、個人的の欲があっては教会内がもめる。責任役員や、委員や、教師や、信徒は、長の欲のために批判が始まる。その批判をするのを改良する心にもならずに責任役員や、委員や、教師や、信徒を、教会長が頭からたたきつける。さすれば責任役員や、委員や、教師や、信徒が、皆にげてしまう。そうなると、理からたたきつける教会長は、その教会にはいられなくなって、理から退かねばならんことになりますから、先頭者というものは、個人的の欲をやめな
​いと、だめだと思う。  
​責任役員や、委員や、教師や、信徒に、自分の洗濯をさせたり、いろ〜な個人の用事をいいつけたり、道と個人をこんどんせぬようにしてほしいと思う。先頭者というものは、自分の教会の責任役員や、委員や、教師や、信徒を、自分の家へ雇い入れた奉公人のようなつもりで、人をこき使うということは、人のかしらには立てない消極的な人と思う。そういう人は一日も早くこの道から退去した方がよいと思う。  
​あちらへ行ってはだしやだしゃ、こちらへ行ってはがしゃがしゃ、「おまえがこうゆうことをいったから、おれはこうゆう運命になった」とゆうて、自分の悪いことは棚にあげて、親様をうらんだり、責任役員や、委員や、教師や、信徒を、あしざまにののしって、ひとりさびしく暮らしている、ということでは、先頭者とはいえないでしょう。こうした御言葉も、思いあた
る人は絶対に思い換えをして、欲にはなれて改良して、道にまい進してほしいと思う。わかったでしょう。  
​一六日 国床立之命様 おたがいにおもいやるりで おもわれる ☆ 九五四
           家もはんじょう 道もはんじょう 友引  七三八
                              二一一六 🦅  
​まったくのことと思います。  
​一七日 面足之命様 これからの みちのしだいというものは ☆ 一六五
          りにりがそうて なにかはんぜん 先負  八四九
                              三二七 🐀  
​ということは、どういうことであるならば、この「会田ヒデ」が、幼い時から仏教を学び、自分の家の家庭的事情から、どこかもっとしっかりと助けていただける道はないかと、朝な夕なにと、天照皇大神宮様へ願いをかけ、おる所から、ある人が訪れて来て、いろ〜とのお話を聞かしてくれて、それからその人といっしょに、お参りにやらしてもらった所が丹波市の天理教で
​あって、「他の宗教は信仰してもよいが、天理教だけは、お参りには行ってはいけない」と、親からとめられておりましたから、天理教の神殿へは、お参りに行かずに、待てよ、この「会田ヒデ」は、仏教の浄土真宗、すなわち親鸞上人様の教えを伺っておりまして、他力本願一条の信仰をしておりましたが、この天理教にも、開祖様がおられるはずだ。だからその開祖様のお墓へなりと、お参りにやらしていただきたい、という心になって、親鸞上人様のお墓へでも、お参りするつもりで、お墓地へやらしていただきましたところ、お参りさしていただいておりましたところの頭の上に、お日様がきらきらと御照らしになっておられましたので、御日様と天理の教祖様のお墓としばらく見つめておりましたが、
​ああそうだ、と立ちあがって、今考えると、天理教の教校生が、しるしばんてんを着て、歩いてきましたので、『ちょっと伺いますが、この天理教の
​御教祖様とおっしゃるお方は、どういう方でございましたか、教えてくださいませ』と申しましたところ、「何しろあなたは、どこから来られましたか ここはお墓地ですから、たいした話もできませんが、御教祖様のお口から、お出しくだされた御筆先というものが、あそこに見える木下書店に売っておりますから、それを買って来て、お読みになればわかりますよ」と教えてくれて、その人はお墓地で、立ち参拝をして去って行きました。  
​それから、この私もはっと気がついて、そのお筆先が大急ぎで買ってまいりまして、お墓地でそのお筆先を読まさせていただきましたところ、不思議なことばかりが書いてありますので、天の月日親様と御教祖様とを見くらべて、それから、天理教の本部の神殿で、お参りをさしていただいて、家へ帰ってから、親に話しましたところ、「お前みたいな者は、これから家へ出入りをしてはいかん」というて、さん〜におこられましたが、そんなこと
​御教祖様とおっしゃるお方は、どういう方でございましたか、教えてくださいませ』と申しましたところ、「何しろあなたは、どこから来られましたか ここはお墓地ですから、たいした話もできませんが、御教祖様のお口から、お出しくだされた御筆先というものが、あそこに見える木下書店に売っておりますから、それを買って来て、お読みになればわかりますよ」と教えてくれて、その人はお墓地で、立ち参拝をして去って行きました。  
​それから、この私もはっと気がついて、そのお筆先が大急ぎで買ってまいりまして、お墓地でそのお筆先を読まさせていただきましたところ、不思議なことばかりが書いてありますので、天の月日親様と御教祖様とを見くらべて、それから、天理教の本部の神殿で、お参りをさしていただいて、家へ帰ってから、親に話しましたところ、「お前みたいな者は、これから家へ出入りをしてはいかん」というて、さん〜におこられましたが、そんなこと
​にはとんちゃくなく、お助けやら、いろ〜な道も通らしていただきましたが、親からは十一回も、かんどうされ、夫婦別れや、親子別れが三回、最後には離別され、そして昭和十三年に天降りをいただき、昭和十七年には、八社様の天降りをいただき、昭和二十一年には、東京から豊川に引っ越し、二十四年には、諏訪官林へ引っ越しをして、現在の所に落ち着かしていただいておるようなわけでございますから、これから先の道の次第も、理に理がそうてだん〜と、おおにぎわいの心のふしんが始まってくると思う。という親様の入信からの四十四年ぶりでようやくきょうの日でございます、ということや。
​ですから、皆さん方も、ひるまずたゆまず、理に理をいただいて、道の発展に努力をしてゆけば、親様月日様、八方様に認められて、今世も来世も来々世もということは、万ごう末代見落しなく、お連れ通りをいただいて
気楽安楽に暮らさして、いただくことができる、ということや。わかったでしょう。  
​一八日 国狭土之命様 ごくらくの よわたりできる 今日のひや   二七六
           なんとめずらし なんととのもし 仏滅 ☆ 九五一
                              四三八 🐂  
​ということは、皆さん方が、入信される前と今とは、どう違いますか。実行をしている人は、何んとめずらし御利益をいただいて、何んと楽しみな道やと、喜んで運んでおられるでしょう。  
​この「会田ヒデ」も、大正十二年末より、入信をさしていただいて、人様をお助けさしていただくのに、願えば助かる。願えば助かる。というありがたい一条で、この道にまい進させていただいてまいりました。そこで御言葉の中に『万国を一つにまとめの甘露台。以の字の中の一点を知れ』と仰せくだされてあります御言葉を、天降りいただいてから伺っておりますが、
『万国を一つにまとめの甘露台様』とは、月日様のこと。『以の字の中の一点を知れ』ということは、伊佐那岐之命様、伊佐那美之命様。この神様の理を受けて、一家の家庭の父母様、それにつらなる子供ということは、『一点を知れ』という言葉の理。  
​それから書面の一番しまいに、「以上」という言葉を使うでしょう。上という字が、以の字の方から見れば、上下の下でしょう。反対から見れば上(かみ)親子も共ということが「以上」ということだそうな。  
​また御言葉の中に、『よろずの元の根をほらす、力あるならほりきりてみよ』と仰せくだされてありますが、『この世に生まれさんしていただいてから』と仰せくだされてありますが、『この世に生まれさんしていただいてから、あとさき知りたる者はさらにないから』と仰せくだされてあります通り、『この根のほりかた知りたものなし』と仰せくだされてあります通り、まったくお互様は、これ


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